小林章夫『コーヒー・ハウス』


コーヒー・ハウス (講談社学術文庫)

コーヒー・ハウス (講談社学術文庫)


twitter上で小説(novel)の語源についてつぶやいていたところ,monado氏(id:leibniz*1より紹介され読む。
非常に面白かったので,自身の備忘録もかねてひさびさに書評記事など。


最初期の時代のいくつかのコーヒー・ハウスをはじめ,政治論争の盛んだったホワイトやセント・ジェームスやココア・ツリー,商人や株屋の取引が盛んだったギャラウェイやジョナサン,世界最大の保険機構のもととなったロイズ,まるで秘宝館のように虚実まじった珍品が展示されていたドン・サルテロ,そして時代毎の文人たちに愛されたウィル・バント・ベッドフォードの三つのコーヒー・ハウス,その他さまざまなコーヒー・ハウス。
この本には17〜18世紀にかけてのイギリスで流行したそうした「コーヒー・ハウス」という現在の喫茶店の元祖となった存在とその周辺の人々について,広くかつ詳しく書かれている


当時,コーヒー・ハウスが無数の実用的な情報とゴシップの入り混じった交流の場所であったという話は,現在のインターネット,あるいは明治期の新聞などを思い出して面白い。ペストの流行とあいまって,コーヒー・ハウスが無数の民間療法の流布と医療詐欺にからんでいたところなど,どこのメディアでも似たような話があるのだなと感じる。
もともとはさまざまな階層の人々の<るつぼ>*2的だったコーヒー・ハウスが,やがて政治的な主義やら階級やらでそれぞれのコーヒー・ハウスに集まって他を廃して専門化していくのも,twitterクラスタだとか,ニコニコ動画のカテゴリ分化だとかを思い出す。あるいはちょっと前に読んでた『映画館と観客の文化史 (中公新書)』で,アメリカの映画館の初期も人種のるつぼ的な状態だったのが,段々高級感を増していく中で人種や階層毎に専門化していったという話を思い起こしたり。*3


パトロンのために用意された大テーブルが,やがてそのコーヒー・ハウスでの議論の中心の場となり,まるで行き来のできる舞台と客席のようなコミュニケーションの場が形作られていくのも面白かった。コーヒー・ハウスの中で科学実験を見せて講演するという,最近流行のサイエンスカフェの元祖がすでに行われていたというのも面白い。コーヒー・ハウスが郵便ポストのような役割をしていたなんて話題もあり,本当にさまざまな情報流通の中心になっていたのだなと感じた。


読み始めた理由の片方である,コーヒー・ハウスが,イギリスでの新聞・大衆雑誌の登場と流通に大きく関与していた点は,以前から話には聞いていたが,非常に面白かった。現在の喫茶店の漫画雑誌のように単に置いて回し読みしているだけかと考えていたが,むしろ新聞や雑誌自体がコーヒー・ハウスでの談話に材を取り,そこでの会話や出来事を取り上げたり,雑誌の章立てを実在のコーヒー・ハウスの性格に応じてもじってつけたり,あるいは雑誌の投稿ハガキの元祖のような「投書箱」を記者の馴染みのコーヒー・ハウスに置いたりしていたのも面白い。
特にこの「投書箱」がライオンの頭のかたちしていたことが自分の興味を強く誘った。理由は自分のアイコンを見ていただけばお分かりだろう。言葉を食べるライオンというイメージは非常にお気に入り。


またその投書箱から投稿を受けていた「スペクテイター」誌で,もっぱら実在の出来事を記事にしているにも関わらず,架空の人物を登場させてそれを語らせていたという点も面白い。monado氏の言っていた,novelの始まりではnewsとnovelに差異がなかったという話を裏付けているように思え,また自身が日本民俗学口承文芸研究において感じた「世間話*4は文芸であると同時にニュースであった」という感覚と非常に近く感じた。*5
ちなみに,このへんの話から,コーヒー・ハウス自体がお客の噂話をまとめて雑誌にしたら売れるんじゃないか,みたいなことも考えたが,実際にそれをやったコーヒー・ハウスが常連客や雑誌記者なんかから袋叩きにあって辞めたとかいう話は,なんか2ちゃんねるまとめブログとかを思い出して面白い。ロイズなんかは似たようなことを海運関係に特化してやって愛されたらしいので,多分やり方の問題ではあったのだろうと思われる。


もう一方の理由である文学に関わるところでいうと,特定のコーヒー・ハウスが作家たちのメッカ的な場所になっていたのはよくありそうな話であるが,ウィル・コーヒー・ハウスとドライデン,バトンとアディソンなど,時代毎の中心人物の死とともに中心となるコーヒー・ハウスが移り変わっていくあたり,逆に特定の人に依存しないようなコミュニティができていなかったのだなと不思議に感じた。
当時の文学について詳しくはないのだが,中心となるコーヒー・ハウスおよびコミュニティの移り変わりとともに人気となる作品の傾向も変わっているのだとしたら,マクルーハン的な創作とメディアの関係などとあわせて考えても面白いかもしれない。*6
あと直接関係ないのだが,当時流行ったものの現代ではあまり評価されていないらしい「新古典主義」というのが少し気になったり。あまりよくは知らなかったが,独創を廃して古典を模倣するという態度は,二次創作的なものと関連づけて何か面白いことが考えられるかもしれない。


まああとおまけみたいに言うのもなんですが,仕事がらみでいうと,18世紀以降のコーヒー・ハウスでは図書室を備えてるところが多かったとか,コーヒー・ハウスで本が買えたり予約できたとか,コーヒー・ハウス内に貸本屋があったとこがあったとか,コーヒー・ハウスの跡地や一階が書店や出版社になったケースが多かったとか,そのへんの話もちょっとだけ載ってますね。公共図書館がその役割を果たすことになる労働者の社会教育的な機能を当時のイギリスではコーヒー・ハウスが果たしていた部分もあったとか。
分量的には少し物足りなかったので,このあたりと公共図書館とのつながりは久々に図書館史の教科書を読み直して確認したり,もう少し掘り下げて調べたりしてみたいところ。


ちなみにこの本,近所の書店で見つけられなかったため,図書館をあたったところ,ちょうど返されたばかりの返却棚のところで見つけるなどしました。図書館に探しにきた本を(別に新刊でもなんでもないのに)返却棚で見つけたのはさすがにはじめての経験でしたね。ちょっと不思議な気分でした。

*1:はてなid間違えてた。失敬失敬

*2:ただし男性のみ

*3:映画館についてはその後ドライブインシアターやビデオなど個人化の道を進むが,同様にコーヒー・ハウスも個人宅が暮らしやすくなったためにホームパーティーなどに代替されていったというのが,時代も違うのによく似ていて面白い。

*4:日本民俗学上の学術用語であり,口承文芸の一種で,「伝説」「昔話」などと区別されるもの。もっぱら村の「外」の話を散文体・非定型で語られる。いわゆる噂話的なもの。現在でいうところの「都市伝説」や,口承文芸としての「怪談」は,多くはこのカテゴリに入る。

*5:というか,弥次さん喜多さんというフィルタを通して地方の物事を聞く楽しさに近いかもしれない。地方の出来事と身近なゴシップという相違は,世間話研究上も,かつては遠くの村々の話などが喜ばれたのが,現代では都市伝説のような「身近だがよくわからない場所」の話が好まれる,みたいな話を思い起こさせる。

*6:というか思い出せないがあのあたりがなんか言ってそうな気がする。