「徒桜」にみる「VTuberと鑑賞者の物語的アイデンティティの相互変容」(『VTuberの哲学』)の表現、あるいはVTuberの死・卒業・新ビジュアルについて。

「徒桜」パンフレットと『VTuberの哲学』


「徒桜」(あだざくら)は2024年3月17日に東京・板橋にある「プラネアール 板橋学校スタジオ」で開催されたイベントである。

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「堰代ミコ 生誕記念イベント」と銘打っているとおり、ななしいんく所属のVTuber堰代ミコの3月5日の誕生日を記念したななしいんく主催のイベントで、いわゆるVTuberの生誕リアイベである。VTuberでは年に一度の誕生日にライブやトークイベント、特別なライブ配信などを行うことが多いが、堰代ミコが2024年のそれとして行ったものと言える。

「プラネアール 板橋学校スタジオ」は「学校」をテーマにした撮影スタジオで、3階建ての施設内に教室・職員室・校長室・保健室・部室といった学校内の部屋を模した空間がコンパクトな動線で用意されている。

www.planear.co.jp

「プラネアール 板橋学校スタジオ」のウェブページより2F・3Fの紹介。このようにコンパクトに学校のような空間が用意されている。職員室、保健室は徒桜でも活用された。


イベントは、参加者がスタジオ内を探索し、各部屋に配置された堰代ミコの音声を聞いて謎解きを行い、選択肢を発見し、選択してエンディングを迎える、というかたちで開催された。形式的には「リアル脱出ゲーム」のような体験型イベントに近い。
シナリオ・演出はTRPGシナリオ「カタシロ」で有名なディズム。後日の打ち上げ配信では、堰代ミコとディズム、堰代ミコのマネージャー、および共通の知人でななしいんくスタッフの大浦るかこ(元はななしいんく所属のVTuberだった)らが参加する打ち合わせを重ね、堰代ミコの内面を丹念にインタビューした上でアイディアを持ち寄りながら実現していることが話されている。


本記事は、「徒桜」体験以降このイベントについての考察を何かのかたちでまとめたいと考えていたところ、先日発売された山野弘樹の『VTuberの哲学』の第五章第三節で触れられている「鑑賞者の物語的アイデンティティ、特にVTuberと鑑賞者におけるアイデンティティの相互変容」について、堰代ミコらがどのように表現したか、という観点で紹介するのが妥当と思われたため、その趣旨でまとめたものである。


なお『VTuberの哲学』の「おわりに」で触れられているとおり、自身は出版以前に山野から一部の章について執筆中の原稿データをいただいて直接意見や感想を交換している。自分がした指摘を受けて説明が変更となっている箇所もあり、参考になったようで嬉しく思っている。該当の第五章についても昨年中に原稿を読んでいるが、今回話題とする「VTuberと鑑賞者におけるアイデンティティの相互変容」自体は自身も以前から関心を持ち、VTuber一般に観測される事例として以前から理解している。


VTuberの哲学』の内容は買って読むのが良いと思うが、関連する語彙について簡単に触れると、「物語的アイデンティティ」は哲学者リクールに由来する概念で、山野は「ある一定の物語を生きる登場人物として自らを位置づけることで獲得される自己理解」(同著 p.39)と説明している。具体的には、VTuberがどのような配信を行ったかなどの一連の活動を物語として、その登場人物であるということが「VTuberとしてのアイデンティティ」を構成する「物語的アイデンティティ」となる、ということになる。
第五章第三節で山野はVTuberでなく鑑賞者(つまりリスナー)の「物語的アイデンティティ」についても論じており、「(引用注:VTuberの)物語を語る存在として自己を理解するという構造は、まさに物語的アイデンティティが成立するプロセスに他ならない」(p.263)とし、「VTuber文化においては、VTuberからの直接的な呼び声(略)によって、さらには実際的なコミュニケーションを通して(引用注:鑑賞者の)アイデンティティの変容が生じるという点で特色がある」(p.264)と述べている。特に三節三項では「アイデンティティの変容が生じる鑑賞者との人格的交流を通して、VTuberアイデンティティが変化するという事態を見出すことができる」(p.264)と、「VTuberと鑑賞者におけるアイデンティティの相互変容」についても触れている。本記事はこれが表現されたものの具体例の一つとして前述の「徒桜」を紹介する。
なお、『VTuberの哲学』において「配信者」に相当する語彙は自身は基本的に使用を避けている。これはそのVTuberが見うる場所での語彙の使用がそのVTuberの在り方(山野の議論で言えば倫理的アイデンティティや物語的アイデンティティ)と衝突しうる場合があると考えるためである。ただし「徒桜」では「みんなを知らないぼく」「みんなと出会う前の堰代ミコ」という表現が使われてる点は留意すべきである。

なお、自分がなぜ「徒桜」がVTuberの物語的アイデンティティの議論上で重要な表現を有してると感じたかの一端は、参加者がイベント冒頭に聞かされた以下のことばを読んでもらえばわかりやすいと思われる。堰代ミコを知らない方は、あなたの一番好きなVTuberの名前に置き換えて読んでみると面白いかもしれない。

きっとここにきた人間の数だけ、
全然違う答えや思い出があるんだろうな。
それぞれの堰代ミコが、君たちの頭の中にいるんだろうな。
……だとすれば、人間たちとの思い出が、
今のぼくを作ってるのかもしれないね。
君たちという外側の輪郭が、堰代ミコという内側の形を決めるんだ。

じゃあ、その思い出がなくなっても、ぼくはぼくなのかな?
みんなとの接点がなくなっても、
ぼくのことをぼくと認識してくれるのかな。
みんなのことを覚えていないぼくは、はたして本当にぼくなのかな。
ちょっと試してみちゃおっか。

ルーズリーフの最後に、しっかり書いといてね。
ぼくはこれから君たちのことを忘れるけど、
君たちならぼくを取り戻してくれるよね。

でも、みんなを知らないぼくがしあわせそうなら、
そっとしておいてもいいからね。

ぼくにおくる、
最後のことばをおしえて。
じゃあ、バイバイ。

(「徒桜」パンフレットより。後述の「教室」で流れる音声に相当。ただし「教室」では実際はパンフレットに掲載されていない音声も流されていた。)


「人間たちとの思い出が、今のぼくを作ってる」は山野の物語的アイデンティティそのもののくだけた表現と言え、また「君たちという外側の輪郭が、堰代ミコという内側の形を決める」は「VTuberと鑑賞者におけるアイデンティティの相互変容」に言及しているように思える。現地でこれを聞いたさい衝撃的だったのを覚えている。
そしてそれに続くように、もしVTuberがそうした物語的アイデンティティを捨て去ったらそのVTuberとリスナーはどうなるか、というのがこの堰代ミコの行為(この後のアナウンスでは「いたずら」と表現していた)であり、「徒桜」というイベントである。もちろん、VTuberが突然記憶喪失になるという企画は過去に何度か例があり、それだけなら特別な例ではない。徒桜はその点で、前述の引用のように非常に適切に関係性に触れていること、後述の通り「それだけではない」ことで特筆性があると感じた。
なお「人間」は堰代ミコの言い回しで、ファンネームではなく、およそ堰代ミコの配信のリスナー全体を意味している。より堰代ミコにコミットしたリスナーは「(ミコの)使い魔」と呼ばれる(たとえば自身は堰代ミコのリスナーではあるが、中心的に応援しているのは同じ事務所の別タレントであるので、自分は「使い魔」であるという認識はない)。このふたつの語彙を含む「人間たち、ぼくの使い魔になっちゃう?」は堰代ミコの配信開始時の挨拶である。つまり「人間たちとの思い出が、今のぼくを作ってる」は、積極的なファンに限らず堰代ミコの活動に参加した鑑賞者全般を示している点に注意が必要である。





まず、「徒桜」のイベントの流れと、そこで語られている「物語」について簡単に紹介する。

「徒桜」の参加者は入場の受付を済ませた後、画面越しに「現在の堰代ミコ」と直接会話をしながらのハイタッチ会を行う。このハイタッチ会自体は「徒桜」の構成というよりは堰代ミコ本人がずっと昔からやりたかったためギリギリまで検討して追加したものというが、イベント自体が後述のとおり「過去の堰代ミコ」と「現在の堰代ミコ」の関係を扱う内容だったことをふまえると、その直前に「現在の堰代ミコ」と出会えることは適切な表現と思える。会場内で流れる堰代ミコの音声はハイタッチ会以外はすべて事前の収録である。

ハイタッチ会中の堰代ミコ

ハイタッチ会を終えると参加者は「教室」に通されて堰代ミコの音声を映像付きで聞くことになる。

教室の映像

ぼくはこれから君たちのことを忘れるけど、君たちならぼくを取り戻してくれるよね。

と堰代ミコは上述のように告げ、机の中のルーズリーフとバインダーを参加者に預け、参加者に別れを告げる。
その後、堰代ミコとは違う声(同じななしいんく所属の紫水キキと後日明かされた)で2階に上がるようにアナウンスが入る。

階段で2階に上がると「職員室」、購買、閉ざされた「用務員室」が目に入る。購買は物販でイベントグッズであるパンフレットとステッカーが購入できる。階段からは見えないが奥に「校長室」もある。
3階に上がるとまず閉ざされた「自室」、奥の通路の先に「部室」「講習室」「保健室」がある。
階段をさらに上がれば「屋上」がある。
それぞれのポイントに体験する明確な順序は示されていない。「校長室」は時間が来るまで入れない旨がルーズリーフに記されている。明示されないが「講習室」「屋上」も時間経過で入れる仕組みだったと思われる。「自室」は入場を制限されており、条件を満たすと入ることができる。
各部屋では上述のとおり堰代ミコの音声を聞くことができ、また堰代ミコに関する質問が貼りだされている。教室の音声を聞いていれば、これをルーズリーフに書くのだと分かる。

職員室の質問

ちなみに購買で購入できるパンフレットは非常に重要なアイテムで、各部屋の音声のほとんどのテキストが(実際には音になっていない補完も含めて)掲載されている。
堰代ミコ自身がデザインしており、表紙は通知表、裏面は修了証と、卒業式を意図したようなデザインとなっている。

徒桜パンフレット


「徒桜」は当日以外に体験の方法がないため、以下トリックも内容も分かった範囲のものはすべてネタバレをする(後述する関連する文学作品についても躊躇なくネタバレする)が、「徒桜」は実は謎解きのゲームとしては最小限のトリックしかなく、「自室」に入場するヒントがルーズリーフと「用務員室」「保健室」にあり、購買に「兎のやつください」というと兎のぬいぐるみが渡され、それを持参すると「自室」に入れるようになる、ぐらいである。
そのほかに「校長室」にあるブルーライトをルーズリーフに当てる(このヒントは入場時に手の甲に押されるスタンプとルーズリーフにある)と文章が浮き上がり、「講習室」と「屋上」の内容が示唆されるギミックがある。ただしあくまで情報であり、解かなくても「講習室」か「屋上」には行くことができる。この二つはルール上二者択一となっている。

校長室のブルーライト。撮影時にはギミックに気づいていなかった。

「徒桜」は整理するとこのように、各部屋の音声を聞いて、質問の堰代ミコへの回答をルーズリーフに刻んで、「講習室」か「屋上」のエンディングを選び、ルーズリーフを残すかあるいは持ち帰る、というシンプルな形式となっている。



「職員室」「用務員室」「校長室」「自室」「部室」「保健室」「屋上」で語られる物語は複雑で、順序も明確でないが、パンフレットの「背景(彼女、またはあの子、あるいはあなた)」と題されたテキストに概略が整理されている(あるいは、こちらがベースストーリーとして先に書かれたものかもしれない)。
「背景~」の内容を時系列で要約し、各部屋の音声の内容を若干補完して3段階に分けると以下のようになる。

  1. 高校生の「私」(音声の話者。この人物の声しか流れない)には学校に同性の友人の「彼女」がいた。「私」は「彼女」に同性愛的な強い好意を持っていた。「私」と「彼女」は授業をサボってふたりで用務員室で話すなど親しい友人として仲良くしていた。将来同じ大学に行きたいとも約束していた。「私」は「彼女」とのこうした関係を周囲に秘密にしたいと考えていたが、次第に「公然の秘密」となり、家族に反対された。
  2. 「彼女」が行方を告げずに姿を消した。おそらく事件性はなく「今にして思えば、ただ引っ越しただけだったように思う。」とも触れてる。 「私」が「彼女」を殺したというような噂が流れるようになった。姿を消した「彼女」を思ううちに「私」は「彼女」のように振る舞うようになり、「ぼく」と自称する人格が生まれた。「私」と「ぼく」が自問自答するようになった。
  3. 「私」は「ぼく」の人格に上書きされ、「ぼく」≒「現在の堰代ミコ」になった。


各部屋の音声は実際はもう少し複雑で、その内容を読み解く鍵として各部屋に以下のように特定の文学作品が対応している。これらの作品は「教室」の音声で堰代ミコがこれまで朗読したものとして紹介され、またパンフレットで各部屋と対応して挙げられている。物語が文学作品と紐づけられているのも「徒桜」の特徴であり、またこれらの作品は下記のように堰代ミコのこれまでの配信や動画とも紐づいている。


部屋と作品の読み解きについては、細かい謎解きを解説するのがこの記事の意図ではないので簡単に紹介する。
たとえば「職員室」は学校に呼び出されて先生に応答する「私」の3つの音声が流れるが、対応する夢野久作の「瓶詰地獄」は大きく時間の離れた3つの手紙を順に読む形式で、この3つの音声も離れた時間の出来事と予想できる。具体的にはちょうど1・2・3のそれぞれのタイミングの音声である。
また「瓶詰地獄」は実際の出来事と逆の順番で手紙を並べた点にトリックのある作品で、「徒桜」のパンフレットも3→2→1の順にテキストが並べられている。しかしながら「徒桜」は自由に探索する体験型のイベントで、「職員室」の3つの音声を聞く順序は存在せず、逆順等のトリックは機能していない。このことは、「職員室」以降に聞く音声も順序と出来事の順序が一致しないことを暗示しているものとも解釈できる。
同様に「用務員室」は「私」と誰かが話している音声が片方だけ流れるのをドア越しに聞くことができる(部屋には入れない)。パンフレットでは対応する「ぼく」の会話も補完されているため一見すると1の時期に「私」と「彼女」がした会話であるように思えるが、この部屋は江戸川乱歩の「人でなしの恋」が対応し、作中で人物が人形を女性と見立てて一人で会話する場面がある。それを思い出せば、むしろ2の時期に「私」と「ぼく」と自問自答している様子、と考えるのが妥当だろう。「ぼく」のヒントとしては「保健室」に対応する「Kの昇天」に「二重人格」というワードがある点も挙げられる。

こうした背景ストーリーの概略を、うっすらと理解あるいは誤解した上で、参加者は「校長室」で前述のトリックを解くことで以下の選択肢を与えられる。

ルーズリーフをブルーライトで照らしたさいに浮かぶ文字。右に百合があるのもわかる。メモは筆者の探索時のもの。

思い出のルーズリーフで
上書きし、VTuber堰代ミコを
取り戻すなら【講習室】へ。
女生徒ミコの背中を押して、
彼女を見送るなら【屋上】へ。


「講習室」に行くと、「教室」と同様に堰代ミコの映像が流れて「みんなは女生徒堰代ミコを上書きして、ぼくという悪魔を召還したんだね~。」と告げられる。
「教室」の音声で期待されたように、参加者が記憶を持ち寄って堰代ミコを「取り戻し」たというエンディングである。
参加者はルーズリーフをそこに置いて帰ることになる。参加者はもう他の部屋に行けないと案内される。

講習室の映像


「屋上」に行くと参加者は証としてルーズリーフに桜の花びらのかたちの穴を開けられ、もう「講習室」には行けないと案内される。
屋上に向かう扉は閉ざされており、屋上には脱ぎ捨てられた靴があり、柵に二つのスカーフが結んであるのが見える。
「私は彼女ではなく、私を埋めた。」「だから私は、ぼくとしていきることにしたよ~。」という音声が流れる。
「私」の中に「彼女」に似た「ぼく」という人格が現れ、「私」の人格に代わって「ぼく」になった、という、いわば「ぼく」≒「現在の堰代ミコ」の誕生の物語となっている。
参加者はルーズリーフを持ち帰ることになる。

屋上の様子


参加者にイベント中与えられている時間は1時間であり(ただし複数枠取ることができ、7枠参加した強者もいたらしい)、基本的には上記のような物語の一部を読み解き、「屋上」の結末を見るか、残った短い時間で堰代ミコに関する質問に対する回答をルーズリーフに刻んで「講習室」に提出するかしかできない。自分は2枠参加したが、それでも「屋上」ENDを見た後考えて物語とイベントの意図をうっすら察した上、提出するルーズリーフ≒手紙の文章をしっかり書いて「講習室」に提出するのが精いっぱいだった。あとは購買で「パンフレット」を買って帰るしかない。


「パンフレット」には上記のような内容はある程度明確に書かれており、一つの種明かしになっている。しかし「徒桜」の考察はむしろここから始まる。




まず最初に「徒桜」を参加者が考察することについて堰代ミコが言及していることを二つ挙げておく。
「パンフレット」終わりの堰代ミコの文章では「このお話がどこまで本当かなんてぶすいな事はきかないでよ。」と言っている。
またイベント後の打ち上げ配信では以下のように話している。

徒桜の本編の話なんだけど、事前にね、言っておくと、あくまでも今回のは物語。
体験型物語とうたっているのでね。
お話、ひとつのお話っていう感じで、キャストがぼくとあなたと、っていう感じのくくりなのでね。
何をどこまで本当のことが入ってるのかとか、どれがフェイクなのかとか、そういうのはもうね。
人間たちが思うように、思うように、お話の中でだからね、お話の中で思うように感じてくれたらいいなみたいなって。
そう、思いながら見てました。

なので、だからこの感想も含めてなんですけど。
実際はこういう感じだったんだよとかいう話、マジで一切しません、今後も。
今後も一生しません。

本当に、人間たちが感じたのが、ひとつひとつ全部正解であるっていうのが、そういう楽しみ方をして欲しいなって言うのがあったんで。
ぼくからは、思ってたあれと違うんだ、とかもマジ言わないし、それがそうそうそれ、とかもマジで話すつもりはない。

以下、考察されるような「徒桜」の内実について本人が語ることはないし、またどのような考察をしたとしてもそれぞれが正解であると思っていて良い、という態度である。
自分もこれを尊重しているし、この記事の内容は基本的には自分の考察でしかなく、「ひとつひとつ全部正解」という以上の正解、正しい解釈であるというつもりは一切ない。

「徒桜」体験者の中でこれを読んでる方は自分の考えた正解を大事にして欲しいし、その上でこの記事に気づきがあったのならありがたい。
「徒桜」未体験者の方は、「徒桜」がこうしたイベントだったというより、このイベントを通して自分がこう考えた、そのように考察させるイベントだったと理解してもらうのが適切である。


その上で自分の考察を紹介する。
まず、「徒桜」を考察するうえでは各部屋を以下のような2つのグループに分けると分かりやすい。

  1. 「職員室」「用務員室」「保健室」「部室」「自室」
  2. 「教室」「校長室」「講習室」「屋上」


1のグループはそれぞれ以下のようにコミュニケーションの諸問題を取り扱っていると考えられる。

  • 「職員室」-「瓶詰地獄」:対話の拒絶、断絶
  • 「用務員室」-「人でなしの恋」:秘密
  • 「保健室」-「Kの昇天」:対話相手の喪失
  • 「部室」-「よだかの星」:噂
  • 「自室」-「女生徒」:素直な心


「職員室」では先生の質問にひたすら拒絶する音声が流れている。「ぼくからはなすことは、なにもないよーん。」とまるで付き合わない音声もある。「瓶詰地獄」は「届かなかった手紙」の話である。「屋上」で持ち帰るルーズリーフの伏線ともいえる。
「用務員室」のドアは閉ざされ、参加者は部屋の中の会話を盗み聞く。「人でなしの恋」では同じように盗み聞いた主人公が大好きな人の秘密を暴いたことでその命が失われる。「徒桜」中では勝手に引き出しを開けたり、「自室」に入ったりなどの探索が許容され、また(この記事のように)考察の中で堰代ミコの内面・秘密を考えるような行動が促されるが、そのこと自体の危険や罪を意識させる場とも言える。
「保健室」の音声は「彼女」が姿を消したことについての後悔が語られ、「そんな意地張らずに、もっと話せばよかったんだ。」と結んでいる。「Kの昇天」は死んだKについて残された知人同士のやりとりである。ここの音声が流れてくる場所には「カーテンは開かないで」と書かれているが、奥からのぞき込むと中には何もなかったりする。隠された「秘密」を覗き込んでもそこに実際たいしたものはないのだと明かしていたのかもしれない。
「部室」では尾ひれのついた噂話への嫌悪が語られている。イベント前に堰代ミコはここに対応する「よだかの星」から「赤ん坊のめじろが巣から落ちていたときは、助けて巣へ連れて行ってやった。そしたらめじろは、赤ん坊をまるでぬす人からでもとりかえすように僕からひきはなしたんだなあ。」という文章の前後を引用している。いわれのない噂で迫害される姿を重ねることができる。SNSや匿名掲示板等での誹謗中傷は残念ながらVTuberでは珍しくない話である。あるいは「徒桜」の考察も、ひとつの尾ひれのついた噂話であるともいえるかもしれない。
「自室」の音声は、「私」の「彼女」への思いが丁寧に話されている場所である。対応する「女生徒」は当時実際の女学生の日記を再編したもので、10代の少女の移り変わっていく心が見事に表現されている(堰代ミコの「女生徒」の朗読は、そうしたゆるやかな心の移り変わりを見事に表現しており、2時間超と長いが一聴の価値がある)。上っ面を取り繕うことへの嫌悪、自分自身の醜い内面への恐れ、そうした上で「自然になりたい、素直になりたい」と祈っている、どこにでもいつの時代にもいるような普通の少女の気持ちが表現された作品である。音声には「自然になりたい、素直になりたい」「ポーズばかりの嘘つきの化けもの」など「女生徒」からの引用もあり、素直にありたいという気持ちと、そうあることが批判を呼ぶこと、隠して秘密にしても暴かれてしまう、噂にされてしまうといったことの難しさが象徴されているように思える。「徒桜」は堰代ミコのそうした素直な心をインタビューした上で制作されていると思われる。


上述のように、「徒桜」は全体としてコミュニケーションの諸問題を扱い、それに似た状況に直面させるという構図が非常に多い。
そもそも会場で参加者がルーズリーフに堰代ミコに関する質問を答えて提出する過程は、まさしく「手紙」であり、「徒桜」は「堰代ミコに手紙を出すイベント」である。
「徒桜」自体がVTuberと鑑賞者のコミュニケーションそのものを象徴化したイベントと言えるだろう。



2のグループは対応する作品が少ないが、それぞれ共通するモチーフがある。
梶井基次郎の「桜の樹の下には」は著名な「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」というフレーズのとおり、「屍体」から「美しい桜の花」が生じるという発想を根幹としている。
夏目漱石の「夢十夜」第一夜は「また逢いに来ますから」と言う女の「死体」を埋めて長い時間を待つと、「百合の花」が咲き、「暁の星」が瞬いていたというエピソードである。
ほかの部屋であるが、「Kの昇天」と「よだかの星」もそうかもしれない。
Kの昇天」では、溺死したKは影を通して月世界へ行ったと語られている。
よだかの星」は、よだかが空高く飛び、夜空の星になったという話である。なお、この作品は作者・宮沢賢治が亡くなった翌年に発表されている。
ちなみに「女生徒」にも「黙って星を仰いでいると、お父さんのこと、はっきり思い出す。」と触れている箇所がある。「女生徒」の原型となった日記の作者である女学生は、実際に日記を書き出す少し前に父親を亡くしている。

つまりいずれも、死が花や天体と結びついている。特に「桜の樹の下には」「夢十夜」は「埋める」「花」ということがキーになっている点で共通して特徴的である。
人が死んで花になる星になるというのは普及した発想だが、このモチーフを強化する意図で集中しているように思える。
あるいは、以前から朗読に選ばれてきた作品でもあり、堰代ミコ自身にとって大事なモチーフであるのかもしれない。


「屋上」の音声は

私は彼女ではなく、私を埋めた。

だから私は、ぼくとしていきることにしたよ~。

と話している。
このテキストは、「死体が花になる」という「桜の樹の下には」「夢十夜」のモチーフを、「過去の自分(私)を埋葬することで、新しい自分(ぼく)へと更新できる。」というメッセージに置き換えているように思える。


「講習室」では以下のように話されている。

みんなは女生徒堰代ミコを上書きして、ぼくという悪魔を召還したんだね~。

「屋上」と「講習室」はルール上片方にしか行くことができないため、どちらか一つを選択する必要があるが、冷静に聞くと実は話されている構図はよく似ている。

物語の中の「私」≒「過去の堰代ミコ」が埋められて/上書きされて、「ぼく」≒「現在の堰代ミコ」が生まれた、という話である。
ある出来事を、過去の視点から見るか、現在の視点から見るか、といった選択と言えるかもしれない。


2のグループは、新しい自分の誕生には、過去の自分の埋葬が不可欠である、というモチーフを表現している。
堰代ミコの生誕記念イベントだという前提に立ち返ると、「徒桜」は「堰代ミコの生誕」であると同時に「堰代ミコの葬式」とも言えるだろう。



ここで、もう一群の作品を挙げる。「徒桜」というタイトルの由来の考察である。
「徒桜」ははかなく散る桜を表現した語彙だが、下記の親鸞聖人の歌が著名である。

あすありと思ふ心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

明日桜を見ようと思っても夜に嵐が吹いてもう見られないかもしれない。この内容を今の言葉にすれば「推しは推せるときに推せ」である。
実は「徒桜」開催の翌日、ななしいんくから獅子王クリスと大浦るかこの2名が離れることが発表された。偶然ではない。両名は堰代ミコと親交深く、大浦るかこに至っては上述の通り「徒桜」の関係者であることが明かされている。


また、この歌からもう一つ井伏鱒二の以下の訳詞が思い出される。中国の詩人・于武陵の詩のうち「花発多風雨 人生足別離」を訳したものである。

ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

寺山修司はこの詩に応えるかたちで詩「幸福が遠すぎたら」でこう書いている。

さよならだけが 人生ならば
また来る春は 何だろう
はるかなはるかな 地の果てに
咲いている 野の百合 何だろう


突然「徒桜」中で触れられていない関係ない文学作品まで挙げていると思われるかもしれないが、注目すべきなのは「夢十夜」と「幸福が遠すぎたら」の双方で「百合」という共通の花がある点である。「百合」は校長室のギミックでも重要で、謎解きに必要なブルーライトのそばに百合のオブジェが置いてあり、また参加者に渡されているルーズリーフにも百合の写真がある。

なぜ百合なのか、というのは寺山の詩を考えると分かりやすい。つまるところ、百合の開花は5~6月頃で、桜が散った後に咲く花だからである。
散ることが連想される桜の、その先で咲く百合は、「さよなら」の先にあるもの、過去の自分を埋葬し更新された新しい自分、あるいはその先触れの象徴だろう(「夢十夜」では百合の後に暁の星が現れる)。
なお、百合は徒桜で触れているような女性同性愛を象徴する語彙でもあるし、ななしいんくにはユリという名前のメンバーもいるが、ここでは意識しないことにする。


さらに「自室」の「女生徒」でも百合は登場しており、抗夫から贈られた百合の花束が親切で気持ち良い贈り物として描かれている。
ルーズリーフは前述のとおり「手紙」であり、参加者が堰代ミコに関する記憶を、思いを書き綴ったものであり、そこには百合の写真が添えられている。
百合はルーズリーフ、手紙、参加者から堰代ミコへ伝えたい思いの象徴とも言える。
「講習室」を選択した場合、この手紙は「女生徒」で抗夫が百合を贈ったのと同様に堰代ミコの下に贈られるだろう。一方で「屋上」を選択した参加者の「百合」は持ち帰ることになる。


徒桜は上記のように「堰代ミコの生誕」と同時に「堰代ミコの葬式」とも言える内容であるが、日本で漫画の登場人物の葬式を行ったことで有名な力石徹の葬式」は、ちょうど「徒桜」の1週間後にあたる3月24日の日付に開催された。この仕掛け人が上記の寺山修司である。この点でも奇遇と言える。



この上で、もう一度、ふたつのエンディングの相似する発言を振り返る。

講習室

みんなは女生徒堰代ミコを上書きして、ぼくという悪魔を召還したんだね~。

屋上

私は彼女ではなく、私を埋めた。

だから私は、ぼくとしていきることにしたよ~。

上述のとおり、この二つは同じことを言っているように思える。であれば「みんなが堰代ミコを上書きする」と「私を埋める」も同じことなのではないか、と考えることもできる。
「私」の物語の中では、「私を埋める」は外部と関係ない、あくまで自発的な行為であるように思える。
しかし、そもそも「ぼく」が生まれてきたことは「彼女」との対話と喪失に由来する出来事である。
身近な「彼女」とわれわれ参加者という点で異なるが、堰代ミコと他者とのコミュニケーションの中で起こっている、という点では共通している。

また重要な点として、「徒桜」内では彼我を交換するような物言いがしばしば見られることが挙げられる。
屋上の「私」「ぼく」の交換がそうであるし、「用務員室」の「人でなしの恋」的なやり取り、「保健室」での「影」「ドッペルゲンガー」の引用もそうだろう。
特に「保健室」の音声では「例えば、あの子じゃない誰かが私のことを好きになったとして、私が突然消えたら、私のことを好きになってくれた誰かは、いったいどんな思いをするだろう。」と語られている。このことは、まさに「徒桜」で参加者に対して行われていることである(冒頭の「教室」の音声の引用を思い出して欲しい)。
そして、パンフレットのストーリーの概略を整理したテキストのタイトルは「背景(彼女、またはあの子、あるいはあなた)」である。


つまり、過去の堰代ミコが彼女との対話と喪失(喪失もまた「保健室」でコミュニケーションの問題として一括りで表現されていたことを思い出したい)を通して現在の堰代ミコになったという「屋上」のストーリーと、過去の堰代ミコが参加者とのコミュニケーション(ルーズリーフ=手紙)を通して現在の堰代ミコになったという「講習室」のストーリーは、そのまま相似、あるいは同じであり、そのように読みうることを意図されているように思われる。


1のグループはコミュニケーションの諸問題を扱っていた。ここで、1と2のグループのメッセージを組み合わせることができる。
「他者とのコミュニケーションによって過去の自分を埋葬することで、新しい自分へと更新できる。」と。
これは堰代ミコの問題だけでなく、VTuber一般の問題に広げることもできるだろう。


あるいは彼我の交換をVTuberと鑑賞者についても適用することもできる。鑑賞者もまたVTuberとのコミュニケーションによって、新しい自分へと更新している。
少なくとも「徒桜」では、体験した人間・使い魔たちは「徒桜」を通して新しい自分になった、堰代ミコと新しい関係を築けた、と感じたものも少なくないのではと思われる。
VTuberに限らず一般の人間関係に広く適用できるような気さえする。ただ、これは保留しておこう。
少なくともこのような構図が「徒桜」には見られ、そしてそれは山野の「VTuberと鑑賞者におけるアイデンティティの相互変容」そのものを上手く表現している。

「徒桜」はそれが象徴的に行われている場であるが、VTuberが自身の経験や感想を話し、それに鑑賞者がチャットで答える普段の配信空間そのものが、まぎれもなくお互いが過去の自分を提供(埋葬)することで、双方が少しだけ新しい自分になっている場である。そうした場の積み重ねが、VTuberと鑑賞者の物語的アイデンティティを構築していくように思える。


ちなみに堰代ミコは以前から配信企画として、堰代ミコとリスナーが配信で現在の自分のことを語り、その配信アーカイブを1年間非公開にし、翌年一緒に見るという「タイムカプセル配信」と呼ぶ企画を行っている。講習室でも「回収したみんなのルーズリーフは、思い出として大切に読ませてもらうよ。読んだ後、埋めちゃおっかな~。」と言っているが、それはこの企画をふまえたもの。
堰代ミコはちょうど先日それをしている。序盤1時間ほどずっと音声トラブルと格闘していたがそうした過去の堰代ミコもすでに埋められて来年まで非公開である。

【タイムカプセル配信】2025年のぼくと人間たちへ。【堰代ミコ / ななしいんく】


堰代ミコのタイムカプセル配信では「今欲しいもの」や「来年のぼくにメッセージ」などが堰代ミコ本人と視聴者によって刻まれる。
つまり、過去の自分を埋めることが、未来の自分へのメッセージとなっている。
「講習室」でも「桜の樹の下には」とからめて「桜の樹の下に何が埋められているかっていうと、みんなのしたいことが埋まってるってね。」と言っており、「過去の自分を埋める」ことが現在・未来の自分につながっている、というのは、堰代ミコ自身の思想であり、「タイムカプセル配信」「徒桜」に共通するように思われる。




徒桜の重要な指摘は、そのような新しい自分の更新に使われるコミュニケーションは、直接の対話や手紙、チャットのやりとりだけでなく、秘密、噂、拒絶や喪失といった、不完全なコミュニケーション、あるいはコミュニケーションでないように思われるものも含まれているという点である。秘密の暴露や罪悪感、誰かとの別れ、誹謗中傷などの影響もまた、新しい自分の中に刻み込まれていく。


この記事ではあまり踏み込まないが、実は「徒桜」の「堰代ミコが好きあっていた人の喪失」の出来事は、堰代ミコとしてデビューする以前の話(教室のパンフレット未掲載箇所ではそのような説明がされていたはず)ではなく、彼女がデビューした以降のわれわれも見ている中で実際に起こっているのを、古いリスナーであればみな覚えている。
彼女は、堰代ミコと同じ日に同じグループの仲間としてデビューし、1年に満たない期間を堰代ミコらやリスナーとともに過ごし、そして卒業していった。歌の上手い子だった。オープンに堰代ミコへの好意を表明し、自ら堰代ミコの限界オタクと言っていた。突然の別れに、きっと言い尽くせなかったこともあっただろう。自分は見聞きしたことがないが、彼女の卒業で堰代ミコに憶測だらけの噂や心ない言葉が投げられたこともあったのだろう。ななしいんくはあにハニ時代から別れの多いグループだった。自分のよく見ているVTuberが自分に対する似たような噂に怒っているのを見たことは二度や三度ではない。
「徒桜」参加中はなるべくそちらと結びつけないように意識していたが、「徒桜」で語られた言葉の中には、彼女の卒業配信で堰代ミコが彼女に伝えた言葉を思わせるものも多かった。同じ人物が同じようなシチュエーションに直面したのであれば当たり前だろうが、そのような解釈の余地も残していたように思われる。

もちろん、「徒桜」が彼女の話だというつもりはない。
ただ、そうしたこと、堰代ミコがVTuberとして活動して以降、現在までのこと、良いことも悪いことも広く「徒桜」によって埋められている、と考えて良いように思われる。
また、実際に起こった出来事を思い出すと、VTuberやその鑑賞者は直接的な対話だけでなく、近しい誰かの喪失や根も葉もない噂によってさえ、少なくない範囲で物語的アイデンティティの変容を経験していることを理解しやすいのではないかと思われる。
たとえば自分は「徒桜」での手紙を書きながら、彼女の卒業のさいの堰代ミコの姿が非常に印象的だったこと、そこから彼女の見方が変わっていったことを思い出した。


彼女が卒業した後、堰代ミコらハニーストラップが歌った曲で、上記した「徒桜」のメッセージともよく似た歌詞がある。

星の数出会って
星の空願って
数えなくてもいい
想い出は星座に
カタチは変わるよ君との
星降るメモリー

(星降るメモリー / ハニーストラップ)

想い出は星座に変わる。ライブで彼女たちが歌うさい、それが正しいかはわからないが、卒業した彼女のことをうっすら思ったことを覚えている。
堰代ミコは自身の1回目のソロイベント(「徒桜」が2回目)で、自分のオリジナル曲「ミドリなリンゴ」とともにこの曲を歌っている。

星降るメモリー ピアノVer’s / 堰代ミコ 360度動画【堰代ミコ / ハニスト】 - YouTube




堰代ミコは「徒桜」で「最後のことばをおしえて。」と尋ねた。
「徒桜」は、愛すべきものの死や別れ、大きな変化のような難しい出来事に対しての、一つの姿勢であるように思える。
誰かの死、誰かとの別れ、それは非常に悲しいものである。つい先日も偉大な漫画家やイラストレーター、声優の訃報が話題になった。
「徒桜」の翌日にはななしいんくから2名が離れることが発表された。あにハニ、ななしいんくは昔から別れの多いVTuberグループである。自分は昔から有閑喫茶あにまーれを応援していたから、稲荷くろむ、宇森ひなこ、灰原あかね、羽柴なつみ、白宮みみが去った日を忘れることはできない。もちろん、蒼月エリも、不磨わっとも、いなうるうも、虎城アンナもである。離れていったがそれぞれ活動している鴨見カモミや小森めと、周防パトラのこともときどき様子を見ている。今回離れる二人もここに加わるだろう。
悲しむべきことである。けれど。
桜が散った後には百合が咲く。百合の花も散るだろう。次の季節にはその季節の花が咲く。次の年には散った花の枝や種から新たな芽が出るかもしれない。
どれだけつらいさよならでも、さよならの向こう側はある。

別れもまた一つのコミュニケーションである。VTuberの卒業は、VTuberの死に等しいのかもしれない。
対話を続けてきた相手がいなくなることは、何かの終わりであるように思うかもしれない。未来がないと思うかもしれない。
けれど、その別れもまた、お互い過去の自分を埋葬し、新しい自分を更新するための、これまでの配信と同じように非常に大事なコミュニケーションである。
無理に気負う必要はない。これまで通り彼女たちを思って、いますべきことをすればいい。
(たとえばこの記事もまた、大浦るかこがした仕事への感想を彼女がななしいんくにいるうちに残したい、という自分なりに考えた「すべきこと」である。)
別れを終えた自分が何をしたいかは、そのとき新しい自分として考えればいい。


人は更新する。VTuberもまた更新する。
鑑賞者が変わるなら、あるいは新しい鑑賞者と出会うために、VTuberも変わり続けなければいけないのかもしれない。
そのときには、これまでの過去の自分を適切に埋葬し、そこから新しい自分を生み出さなければいけない。


ななしいんくでは現在「新ビジュアル」という試みが各タレントで順に行われている。
VTuberがこれまでのビジュアルと大きく違った新しい姿に更新していくことで、これ自体はななしいんく固有ではない(ホロライブの白上フブキが2D・3Dともリニューアルしたことなども話題になった)。ただしななしいんくのタレントは一部を除きこれまで特定のアーティスト(いわゆる「ママ」)が名前を出してデザインしたものではなかったことから、新たに「ママ」がつくようになった点、ななしいんく全体で大規模に行われている点が特徴的と言える。

これまでに風見くく、飛良ひかり、日ノ隈らん、湖南みあ、杏戸ゆげ、柚原いづみが新ビジュアルをお披露目している。龍ヶ崎リンが先日お披露目し、特に自分が応援している因幡はねるも近日のお披露目を控えている。堰代ミコも今後予定しているかもしれない。
最初にお披露目した風見くくは旧ビジュアル最後の配信を「ENDING NOTE」と銘打ち、劇的な3Dライブの上、死を思わせる演出で終わらせた。
新ビジュアルをお披露目するスタンスはタレントそれぞれで、前日に告知してさっとお披露目する者もいる。当初は警戒していたリスナーもいたが、いまではみな好意的に受け入れている印象がある。


リスナーにとって変化は必ずしも嬉しいことではないかもしれない。タレントにとっても不安は大きいはずだ。
それでも、お披露目という場でVTuberと鑑賞者双方が過去の自分をちゃんと埋葬して新しい自分を更新することで、新ビジュアルの彼らと新しい関係を築くことができる。
少なくともこれまでできているように感じている。


季節がめぐりゆくように、人は死に、人は別れ、人は変わる。
花が咲くように散るように。
そこで過去の自分が埋葬されて、新しい自分が更新されるなら。
そのときどうするかは結局、それまでの自分たちがどうなりたいかなのだろう。

自分にとって「徒桜」は、そのように思わせてくれる作品だった。
これからの心構えを考えさせてくれるような作品だった。




以上のように、自分が「徒桜」の考察の中から読み取ったのは「VTuberと鑑賞者は、コミュニケーションによってお互いに過去の自分を埋葬することで、新しい自分へと更新できる。」という図式である。
「徒桜」は参加者が堰代ミコへの言葉を綴って贈ることで新しい堰代ミコを取り戻すということが象徴的に行われた一種の儀式であるが、実のところ同じことは普段の配信など日々行われている。
このこと自体は特別でなく、山野が「VTuberと鑑賞者におけるアイデンティティの相互変容」と述べた事象を、堰代ミコらなりに表現したものであるように思われる。

「徒桜」で加えて表現されていることは、そうしたコミュニケーションには、コミュニケーションの拒絶(職員室)、秘密(用務員室)、喪失(保健室)、噂(部室)のような、適切なコミュニケーションが成立していない、不完全なコミュニケーションの諸相もまた含まれている、ということであるように思える。
VTuberと鑑賞者の物語の中には、悲しいこと、あるいは不快なことすら刻まれ、複雑に相互の物語的アイデンティティを構成していく。その指摘は自分は妥当なように思える。


山野は「人格的な交流を通して、VTuberと鑑賞者は相互にアイデンティティを変容させ合う。」(p.268)と述べている。
そうした「人格的な交流」の範囲に、「徒桜」で描かれている不完全なコミュニケーションの諸相が含まれるのかは一つの問いになるかもしれない。

堰代ミコは2018年7月にデビューし、まもなく活動7年目を迎える。その中で繊細な感受性で彼女が感じてきたことを、ディズムらがインタビューしたことが「徒桜」には表現されていると思われる。
文学作品などを絡めた複雑な構成はおそらくディズムによるところだが、「徒桜」の中心的な要素は堰代ミコ自身の感性ではないかと思う。

VTuberの哲学」ではVTuberのオリジナル曲を通じて「VTuberと鑑賞者におけるアイデンティティの相互変容」について論じたが、VTuberのクリエイティブは楽曲だけではない。
「徒桜」のような多様な表現がVTuberによって行われている。
そうした中でも、このように「VTuberと鑑賞者におけるアイデンティティの相互変容」などについて色濃く表現されていると自分は思う。
その中では山野の「VTuberの哲学」で提示されたような概念によって論じうることが可能になることも、少なくないのではないだろうか。






最後に、堰代ミコが「徒桜」の終了後に公開した歌ってみた動画を紹介する。
同じく2018年にデビューしたVTuberである花譜のオリジナル曲「花女」を歌ったもの。堰代ミコは以前からこの曲のカバーを考えていて、「徒桜」の開催に合わせて今回用意したものという。
ポエトリーリーディング的な楽曲であり、シンガーである花譜に対して、朗読を得意とする堰代ミコによるカバーは別の良さがあり、「徒桜」未参加者でもぜひ聞いてもらいたい。

www.youtube.com

テキスト「花女」

拝啓 昔の私
それなりに味方もいて敵もいた
だけどなぜか嫌われてばっかな気がした
見下されたくない

この歌の歌詞も「徒桜」と同様に「昔の私」と「未来の私」が登場し、花と死への恐れが描かれている。
またこの歌はカンザキイオリの作詞作曲だが、彼と花譜の関係は、「徒桜」のディズムと堰代ミコに少し似ているように思える。
カンザキイオリは現在は離れているが、花譜のデビューから昨年まで、彼女のほとんどの楽曲を制作してきた。
二人による楽曲は基本的にはカンザキイオリのクリエイティブであると思うが、二人の対話の中で生まれてきた部分も少なくないと思われる。
「徒桜」で参照された「女生徒」も、太宰治が女性読者から送られた日記を編集して作った作品であり、少し似ている。
「徒桜」、花譜の楽曲、「女生徒」はいずれも、男性クリエイターが若い女性の感性を取り入れた創作という共通点がある。


自分は何度か配信ライブで花譜の歌う「花女」を聞いていたが、この歌が何を描いているのかよく理解できず、ただ花譜の情感のこもった言葉と歌に感じ入ったものだった。
ただ、「徒桜」の考察と今回のカバーを聞いて、少なくとも一つの解釈を得たように思える。

君だって最初は敵だった
愛想笑いばっか浮かべて
私のこと本当は苦手なんだと
日々を紡いでも疑った

「徒桜」パンフレットの最後で、堰代ミコは「いつもたくさんにんげんに好きをもらえることができるってのがずーっとしんじられない日々なのさ。」と書いている。
自分に与えられる好意を信じられない。VTuberとしてデビューしてたくさんのファンができても、どこかそれを信用できない、そのようなところは実際ある子だったと思う。
「花女」で描かれているものを男女関係としてとらえると自分にはわかりづらいが、VTuberとファンの関係と思うとしっくりくる部分もある。

君は花をドライ加工して笑いながら本棚に置く
「そんなもの価値なんてないでしょ?」


ファンはどんな些細なものでも、推しと関係のあるものは大事にして、ケースに入れたりラミネート加工して保存しようとしたりする。
出している側としては本当に不要なものにしか見えないとしても。
たとえば推しからTwitter(X)でリプライをもらったりしたら、そのスクショをヘッダーに飾ったりするかもしれない。そのような光景はよく見かける。

「僕を大好きと知った
 それだけでいいさ
 確信なんてないのだけれど
 間違ってるなら教えてくれよ
 まあいいやとりあえず
 大好きだ」

それは一見理解できなくても、好意の表明だ。
その好意を繰り返し受けることで、時間をかけることで、「私」も変わっていく。

「じゃあ私の部屋に置こうか」
(え? なに言ってるの?)
(今まで敵だったんだよね?ねえ)
(彼を好きにでもなった?)

「ああそうだよ私は好きなんだ彼のことが」

自分の中の二面性との葛藤は「女生徒」でも繰り返し描かれている。堰代ミコの「花女」はこの点、「女生徒」の朗読を思わせる繊細な変化で表現されていて素晴らしい。
「花女」では自分が彼を好きなことを認めることが「昔の私」と「未来の私」の分岐となっている。

「じゃあ私の部屋に置こうか」の解釈を迷っていた(素直に読めば同棲なのかもだが一足飛びにすぎると感じていた)が、
VTuberとファンの関係で言えば、ファンアートやファンからのメッセージをVTuberがリポストしたり配信画面などに飾ったりすることを思い浮かべるといいのかもしれない。
理解できなかったはずの好意を認めて、自分の中に相手を受け入れたということだろう。

確信が持てないまま
すれ違う日々も増えた
あの日初めてあげた花びらも
年季が入って色落ちた


人間同士の関係も、VTuberとファンとの関係も永遠ではない。
決定的な変化は、彼との会話でなく、彼との会話の断絶から起こった。
すれ違い、出会えない時間が、その関係が永遠でないこと、いつか喪失することを自覚させる。
これも「徒桜」を思い出させる。コミュニケーションの断絶や喪失も更新を起こす一つのコミュニケーションである。

さよなら さよなら
今までの私

(拝啓 未来の私)
(本当普通の大人になったね)
(本当普通の大人になっちゃったんだね?)
(くだらない くだらない)


そうして「過去の私」を埋葬することで、「未来の私」、成長した大人に更新される。
一連の流れは、「徒桜」と共通する構図を感じさせる。
なお、このカバーのMVでは絵画の「オフィーリア」のように横たわる堰代ミコが描かれているが、MVで彼女の目が開かれているのはこうした「過去の私」のパートだけで、好意を自覚した後の「未来の私」ではおおむね目を閉じている。堰代ミコのオリジナル曲「ミドリなリンゴ」は赤に染まらない「ミドリなリンゴ」で居続けることを歌っている。「花女」の中でVTuber堰代ミコはあくまで未成熟な「過去の私」に寄り添ってるということかもしれない。
なおMVのイラストの彼女のまわりには百合の花が飾られている。このことの意味は「徒桜」の考察をふまえれば感じられるだろう。


「大好きを言えるそれだけでいいの」。「花女」の歌詞から動画の説明文に堰代ミコが引用した一文である。
彼女の卒業のさい、堰代ミコが懸命に彼女に伝えた「最後のことば」も「大好き」だったのを思い出した。

堰代ミコと同様にVTuberとして活動してきた花譜の感性が生きているのか、あるいは、同様にネットの中で著名となった繊細な創作者であるカンザキイオリの感性が重なったのか。
いずれにしろ「花女」は見事なまでに「徒桜」のフィナーレとしてふさわしいカバーだった。

散った桜は二度と見れない、「徒桜」を体験することはもうできないが、その残り香は残っている。
この文章に興味を持ったなら、「徒桜」未体験の方も、せめてこの歌は聞いてもらいたいと思う。